カテゴリ:
今日11日(土)から、8月2日(日)まで、ギャラリーいのくま亭では齋藤華奈子さんの個展「スピリタスとインフォ」を開催します。

齋藤さんの展示は、昨年から何回か観る機会があって、お話も伺って来ましたが、改めてその作品に私が感じている魅力の源泉を知りたいという気持ちもあって、今回、個展をお願いしたものです。

今回の齋藤さんの作品の構成要素は、基本的にふたつあります。ひとつは我々の中でイメージが固定されてるもの=記号化されているもの、もうひとつは、言葉としては付意されつつも、実際にその形状は不確定で、イメージが曖昧なものです。

簡単に言ってしまうと、何だが分かっているつもりのものと、分からないものとが共存することで、分かっていると思っていたもののイメージが損なわれてしまうという現象を作り出していると言えるでしょう。

作家の言葉によると、その二つがひとつの作品の中で鬩ぎ合う時に、あるエネルギーが生成されるとのこと。このエネルギーは、人によって感じ方も違うと思いますが、知覚的な違和感から来るストレスともなり、あるいはもっとポジティヴに捉えれば、既成概念に囚われない、存在そのものへの能動的なアプローチの起点とも考えられるでしょう。

齋藤さんの作品の中で、当たり前だと思っていたイメージが侵され、崩壊していく時に感じる不安や居心地の悪さ…。私はそこに心理的な「怖さ」のようなものを感じていました。そして最近、その「怖さ」は、アニミズム的な感情と類似しているのではないかと思っています。

はるかな昔、人は自然との出会いの中で沢山の恐怖に遭遇していたことでしょう。その過程で生み出されたものが、言葉であり、言葉によってそれらの不明なものに名を与え、固有の概念を付与させて来たのです。そしてまた、「神様」というものを生み出したのも、そんな発展の中での必然的な営みであったと言えるでしょう。

ところがこの「神様」は、様々に形象化されつつも、相変わらず、認識の埒外にあるものとして捉えられないでしょうか? いや、ここで言う神様が、キリストやブッダという、言葉によって綿密に理論構築された思考としての信仰ではなく、それ以前の、裸の自然に名付けられたばかりの「神様」を指すのであれば、それは「霊」=「スピリタス」とでも呼んだ方が良いものなのかもしれません。

私は今回齋藤さんが展示してくれた作品を、そんな、分かるものと分からないものとの間に存在する「何か」=「存在するものの霊的な形象化」として見ることにしています。それは認識の始原的な体験を共有することにもなるのではないでしょうか?

そうしてみると、ひとつひとつの作品にエネルギー、あるいはオーラのようなものが宿っていると思え、同時にまたそれらの様相が、なんとなく不可思議で、ユーモラスで、親しみすら湧いてくるような生き物として、私の隣に近づいて来るような気がするのです。

蒸発していたスピリット


倒壊していく認識の塔


バナナケースと言われなければ単なる不思議な形の物質


河原の石にマニキュアという自然と人工物の混在 ゴウストさま

遮られることで破壊されるイメージに鑑者は苛立ち背を向けるか、あるいは向き合い、受け入れるのか?

http://galleryinokumatei.flips.jp